量子力学の奇妙なところについての読書メモ(3)
本当のパラドックス
EPR実験やその周辺について思考を巡らせるとき、我々は実在について悩まなければいけない。だがロケットを飛ばしたりタンパク質の折りたたみを調べたりしているときは、そんな必要はない。ならば、微細な部分では曖昧で不可解な性質を持つものが、なぜ巨視的には堅固で確実なように見えるのか。
また、量子の性質が不確定だというのならば、それを観測する機械自体が不確定で曖昧な結果を出さないと、どうして言いきれるのか。
脱コヒーレンス
この問題を説明するため、まずは例の猫が生きているか死んでいるかを考える。生きた猫を表す粒子の配列はたくさんあり、死んだ猫を表す粒子の配列もおそらく同じくらいたくさんある。しかもそれらはその中で常にうごめいている。すると、猫が生きているとか死んでいるとかを、ひとつの巨視的量子状態として捉えていいのかは疑問だ。
結論から言うと、猫の箱につながれたシュテルン・ゲルラハ磁石を電子が通過した瞬間、たしかに猫は半分死んで、半分生きている。電子が半分上向きで半分下向きと言うのとまったく同じ意味で、つまり重ね合わせとして、だ。だが大量の粒子の集まりとしての猫は常に微妙に変化している。このとき、死んでいる側と生きている側が両方ランダムに生きた状態と死んだ状態へと変化していく。この無数の生きた猫と死んだ猫の重ね合わせにより、波動関数が互いに打ち消し合うのだ。従って巨視的には、確率的に生きているか死んでいるかどちらかへ変化することになる。
要するに電子が観測されたその一瞬だけは猫も重ね合わせの状態にあるが、一瞬後には、おなじみの「生きているか死んでいるか知らない」というごく普通な状態になるわけだ。
これを、量子の集合体が協調的にではなく分散的に動くという意味で脱コヒーレンスとよぶ。
コヒーレンスが復活したら
脱コヒーレンスは、それぞれの粒子がほぼランダムに動くため、コヒーレンスを維持するのに比べて圧倒的に確率が有利なためおこる。これは、たとえばタバコの煙を吐き出したとき、それがまっすぐ上に昇らず広がっていくのと似ている。原理的には、まっすぐ昇ることは可能だ。ただ確率が極めて低いというだけの話である。白いピン球10000個の中に3個のオレンジ色のピン球を入れ、その容器を振っているうちに三個が集まってくるか、というのとも似ている。原理的には可能だが現実的には起こり得ない。
つまり、時間が経てば猫は再び半死半生の重ね合わせになりうる。だが現実的には起こりえず、起こったとしても誰も気がつかないほど早くコヒーレンシは再び失われ、その性質は消える。
月がきっと存在するのも、観測機が正しく電子のスピンを観測できるのも、同じ理由による。天文学的に小さい確率で、月が一瞬裏返るかもしれないし、計りの針が二ヶ所を同時に指すかもしれない。だがそれは巨視的なモノに関しては現実的には起こり得ないから、心配する必要が無いのだ。
感想
一応、これで全部です。あまりうまくまとまっていないのは、あまりちゃんと理解していないため。たぶんこの本が特に難解だという訳ではないと思うが、概念自体が僕にとっては新しすぎて、馴染むのに時間のかかっている。なにせ、対応する現実のメタファが見当たらない。他の分野の科学というのはだいたいにおいて現実世界にメタファがあり、それを活用することで理解を進めることができているんだというのは、この本を読んで得た副作用的な気づきだ。
この本のタイトルはかなりいいところを突いてると思う。序盤・中盤で量子力学の奇妙なところをこれでもかというほど突きつけておいて、終盤ではその奇妙さが八割がた無くなるように展開する。ただ、完全になくなる訳ではない。だから「思ったほど奇妙でない」というのは言い得て妙だ。
英語の長い分がそのまま訳されていたりと和訳にちょっと難があるが、全体的には、かなり頭の体操になったので満足だ。
しかし結局もやもやが残る…。これを消そうと思うといずれかの流派(と言うよりむしろ宗派)を踏襲するしかないんだろうか。