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量子力学の奇妙なところについての読書メモ(3)

Posted in BookNotes by マルコ on the April 18th, 2008

why-quantum-physics-is-not-as-strange

1回目2回目の続きです。

本当のパラドックス

EPR実験やその周辺について思考を巡らせるとき、我々は実在について悩まなければいけない。だがロケットを飛ばしたりタンパク質の折りたたみを調べたりしているときは、そんな必要はない。ならば、微細な部分では曖昧で不可解な性質を持つものが、なぜ巨視的には堅固で確実なように見えるのか。

また、量子の性質が不確定だというのならば、それを観測する機械自体が不確定で曖昧な結果を出さないと、どうして言いきれるのか。

脱コヒーレンス

この問題を説明するため、まずは例の猫が生きているか死んでいるかを考える。生きた猫を表す粒子の配列はたくさんあり、死んだ猫を表す粒子の配列もおそらく同じくらいたくさんある。しかもそれらはその中で常にうごめいている。すると、猫が生きているとか死んでいるとかを、ひとつの巨視的量子状態として捉えていいのかは疑問だ。

結論から言うと、猫の箱につながれたシュテルン・ゲルラハ磁石を電子が通過した瞬間、たしかに猫は半分死んで、半分生きている。電子が半分上向きで半分下向きと言うのとまったく同じ意味で、つまり重ね合わせとして、だ。だが大量の粒子の集まりとしての猫は常に微妙に変化している。このとき、死んでいる側と生きている側が両方ランダムに生きた状態と死んだ状態へと変化していく。この無数の生きた猫と死んだ猫の重ね合わせにより、波動関数が互いに打ち消し合うのだ。従って巨視的には、確率的に生きているか死んでいるかどちらかへ変化することになる。

要するに電子が観測されたその一瞬だけは猫も重ね合わせの状態にあるが、一瞬後には、おなじみの「生きているか死んでいるか知らない」というごく普通な状態になるわけだ。

これを、量子の集合体が協調的にではなく分散的に動くという意味で脱コヒーレンスとよぶ。

コヒーレンスが復活したら

脱コヒーレンスは、それぞれの粒子がほぼランダムに動くため、コヒーレンスを維持するのに比べて圧倒的に確率が有利なためおこる。これは、たとえばタバコの煙を吐き出したとき、それがまっすぐ上に昇らず広がっていくのと似ている。原理的には、まっすぐ昇ることは可能だ。ただ確率が極めて低いというだけの話である。白いピン球10000個の中に3個のオレンジ色のピン球を入れ、その容器を振っているうちに三個が集まってくるか、というのとも似ている。原理的には可能だが現実的には起こり得ない。

つまり、時間が経てば猫は再び半死半生の重ね合わせになりうる。だが現実的には起こりえず、起こったとしても誰も気がつかないほど早くコヒーレンシは再び失われ、その性質は消える。

月がきっと存在するのも、観測機が正しく電子のスピンを観測できるのも、同じ理由による。天文学的に小さい確率で、月が一瞬裏返るかもしれないし、計りの針が二ヶ所を同時に指すかもしれない。だがそれは巨視的なモノに関しては現実的には起こり得ないから、心配する必要が無いのだ。

感想

一応、これで全部です。あまりうまくまとまっていないのは、あまりちゃんと理解していないため。たぶんこの本が特に難解だという訳ではないと思うが、概念自体が僕にとっては新しすぎて、馴染むのに時間のかかっている。なにせ、対応する現実のメタファが見当たらない。他の分野の科学というのはだいたいにおいて現実世界にメタファがあり、それを活用することで理解を進めることができているんだというのは、この本を読んで得た副作用的な気づきだ。

この本のタイトルはかなりいいところを突いてると思う。序盤・中盤で量子力学の奇妙なところをこれでもかというほど突きつけておいて、終盤ではその奇妙さが八割がた無くなるように展開する。ただ、完全になくなる訳ではない。だから「思ったほど奇妙でない」というのは言い得て妙だ。

英語の長い分がそのまま訳されていたりと和訳にちょっと難があるが、全体的には、かなり頭の体操になったので満足だ。

しかし結局もやもやが残る…。これを消そうと思うといずれかの流派(と言うよりむしろ宗派)を踏襲するしかないんだろうか。

量子力学の奇妙なところについての読書メモ(2)

Posted in BookNotes by マルコ on the April 16th, 2008

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前回の続きです。

コペンハーゲン解釈 vs EPR

測定していない事象はあくまで不定であり、それを考えることには意味が無いとするのがコペンハーゲン的解釈。それに対し、アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンは通称EPR呼ばれる思考実験を提唱し、反証しようとした。

EPR実験では、正反対の方向へ飛び出す一対の粒子を考える。すると一方の粒子について位置や運動量などを測定することで、もう一方の粒子に関しては何の影響も与えること無く情報を得られることになる。つまり測定と独立した絶対的な現実が存在するはずだという主張だ。だがコペンハーゲン派代表のボーアはそうではないと言った。

ジレンマの誕生だ。アインシュタイン説を取るとある定まった現実が存在することになり、ボーア説を取ると何らかの方法で瞬間的に情報が伝達されていることになる。両方、あまり好ましくない。

ボームの「隠れた変数」説

ボームは、測定している事物には、我々の知らない秘密の「隠された」特性があるのではないかと言った。例えば二重スリット実験で言うと、光は実際に粒子であり、どちらか片方のスリットを通る。その際、光子はガイドウェーブというものに導かれる。その上で光子の初期状態に微妙なばらつきがあるため、結果として干渉模様が生まれるという。

だがこの説はあまり広く受け入れられなかった。まず、ガイドウェーブが光子に道筋を教える方法を説明するために量子ポテンシャルと言う不可解な新しい概念が必要であること。次に、光子は力の作用を受けないのにどうやって道筋を変えるのかが上手く説明されないこと。さらに、ガイドウェーブは必然的に非局所的であり、装置のあらゆる部分からの必要な情報を持っていなければいけないこと。

ベルの定理

ベルは同時に二つのEPR実験を行った際のそれぞれの粒子の状態を変数としたある代数式を掲げた。もし隠れた変数によって情報が瞬間的に伝達されるのなら、その式は-2〜+2の値を取るはずだった。しかし実験的には、最大で2√2までの値を取りうることが分かり(アスペが行ったこの実験はこの本で解説するには難しすぎるらしい)、かくして隠れた変数説は失脚した。コペンハーゲン解釈は妥当性を保ったわけだ。

残された可能性

隠れた変数による潜在的な現実という説が倒れたいま、残された考え方は三つに分けられる。
・ボーアが正しく、観測するまでは不定なのかもしれない
・瞬間的に伝わる影響力があるのかもしれない
・観測機同士が互いに影響を及ぼしているのかもしれない。

ただし後者ふたつは、分からない部分を別の分からない部分へと押しやっただけ。一方コペンハーゲン解釈は据わりが悪いが理論としては簡潔だ。

続きます。

最終回

ところで、このブログをRSSリーダーで見るとまったく改行されずに表示されていたようですが、修正しました。少なくともGoogle Readerでは正しく表示されるはず。

量子力学の奇妙なところについての読書メモ(1)

Posted in BookNotes by マルコ on the April 13th, 2008

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「量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ」という本の読書メモです。全体の七割ほど読み進んだけど、量子力学が奇妙にしか思えない内容です。これから終盤で奇妙でなくなっていくんだろうか。

不確定性原理

電子には磁気的な軸がある。

電子を飛ばし、上下向きの磁場の中を通過させると、おそらくでたらめな方向を向いているはずの電子たちは上から下までいろんな角度に曲がるはずだ。そんな実験をシュテルンくんとゲルラハさんがやってみたが、結果は予想と違った。

電子が曲がる方向は「上」に行くか「下」に行くかの二通りで、その確率は50%ずつだった。磁場を上下、左右、斜めのどんな向きに設置しても、ビームは必ず二通りに分かれる。要するに初めから偏っているわけではないのに、観測すれば二つの値しか取らない。「観測するまでは電子の磁気的方向は不定」だという、不確定性原理のひとつの例である。

正真正銘の「五分五分」

たとえばコイントスで表と裏が出る確率が「五分五分」と言った場合、それは無知を補うものであり、素材や環境、投げ上げの動作などについてのデータが揃えば五分五分ではなくなる。ところが電子が上に行くのと下に行くのが「五分五分」と言った場合、そもそもそれ以上のデータを得ることは不可能らしい。これに対して反発したアインシュタインが言った言葉が、「神はサイコロを振らない」だった。

光が粒子であること

話は変わって、光を照射された金属が電子を放出することを光電効果という。例えばアルミニウムなどを強い紫外線で叩けば電子がポンポンと飛び出すのだが、これまでの理論では説明のつかない性質があった。

・光の強度(振幅)を上げると、飛び出す電子(光電子)の数は増えるがエネルギーは上がらない。
・光の振動数を上げると、光電子のエネルギーは上がるが数は増えない。

古典物理学の波動理論によれば、波のエネルギーは振幅と振動数の積に比例するから、強度を上げれば光電子のエネルギーも上がって然るべきだが、そうはなっていない。

そこでアインシュタインが言った。「光線ってのは光子のビームだ」

光の強度とは光子の数であり、振幅とはひとつひとつの光子のエネルギーだという主張である。そうすると、つまり叩きつける光子の数を増やせば出てくる光電子も増えるのは自然だ。また、光子のエネルギーを上げれば出てくる光電子のエネルギーも上がるだろう。

不可解な現象をなんとも美しく説明してしまったアインシュタインは、この功績でノーベル賞を受賞している。

光が粒子であることのもう一つの理由

ある箱の中がある温度を保っている状態を考える。エネルギーが粒子の運動だけであれば、エネルギー量を粒子の数で割るだけでそれぞれが担う量がわかる。さて、電磁波もエネルギーを運んでいるらしい。ある箱の中に存在しうる波長は無限にあるが、エネルギー量は有限だ。これはいかなる数式で表されるべきか?

そこで登場するのがエネルギーの基本単位としての光子だ。プランクさんは、それぞれの波長の波が持てるエネルギーはこの単位の倍数でなければいけないと考えた。こうして量子化することで、総エネルギー量を越えてしまうほど波長が短く振動数の大きい波は登場しないことになり、問題はすっきりと解決する。

ほかにも、光をある結晶に反射させてエネルギーの変化を見るコンプトンの実験でも粒子性が現れる。

光が波であること

光は波でもあるという。どんなところが波か?それはヤングの二重スリット実験で示される。

ヤングは、一つの光源から出る光を、二つのスリットを通してフィルムに当てた。光が粒子ならば、スリットを通って二本の光線がフィルムに届き、二つの明るい点を作るはずだ。ところが実際にフィルムに現れたのは縞々の干渉模様だった。

しかも不思議なことに、光子を出すペースを抑えて、確実に一つずつフィルムに届くように実験をやり直しても、やはり干渉模様ができてしまう。この過程をゆっくり見守っていると、さいしょはぽつぽつと斑点ができるのだが、やがて縞々が完成するのだ。どうやら光子が行き着きやすいところと行き着きにくい所は確率的に決まっているらしい。このような確率のパターンを波動関数とよぶ。

観測するということ

量子力学においては観測するということ自体に観測結果が依存する。二つ例を挙げる。

シュテルン・ゲルラハの磁石では、観測することで電子があるスピンを現出した。最初には書かなかったが、上下の磁場でスピンを見た後、上に曲がったものだけを左右の磁場に通すとする。もちろん、結果は左右50%ずつだ。ここで、左に曲がったものだけをさらにもう一度上下の磁場に通す。結果は?なんと、またしても上下50%ずつになってしまう。これは左右のスピンを観測するという行為自体が観測対象の電子に影響を与えたからだとされる。

二重スリット実験では、それぞれの光子がどこを通ったのか観測しようと思えば可能だが、それをすることによって干渉模様は現れなくなる。光子を観測するという行為自体が実験全体に影響を及ぼすからだ。つまり粒子性を観測すれば波動性は消え、波動性を観測しようとすれば粒子性は消える。

観測する前の状態は不定であり、それについて考えることは無意味らしい。なぜなら観測なくして観測結果はありえず、観測するならば結果は観測自体によって決まるからである。

つづきます。

量子力学の量子力学の奇妙なところについての読書メモ(2)
量子力学の量子力学の奇妙なところについての読書メモ(3)

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ひさしぶりに「このブログについて」のページを見たらまだ三回生だなんて書いてあった。でもWordpressがバグっててなぜか編集できない。自分で書いたのに「許可がありません」と言われて消せない下書きもあるし。どないやねんな。