Oddwit


発想・創発のお助けカード

Posted in CodeIgniter, Whatnot by マルコ on the April 23rd, 2008

知恵カード
問題に直面したときや、単にアイデアを探している時に発明的発想がしやすくなる手助けグッズです。

「分けよ」、「2つを併せよ」、「逆にせよ」、「自ら行うように仕向けよ」など、問題やその周辺の情報をこねくり回す方法をカードにしたもので、計40枚が画像としてWebサイト上で公開されています。

こういう手法というのは割と色んなところで見たり聞いたりしますが、平易な言葉とシンプルなイラストでカード型にまとめてあるので利用価値があるかと。

ただ、このサイト上にはカードが並んで配置されていないので印刷するのが面倒。

出来合いのカードを購入することもできるようですが、一組6,500円というぶっ飛んだ値段なのでちょっと現実的ではありません。カードの文言を普通の表にしたものがネタ元の記事にあるので、これをそのまま印刷するか、簡単にレイアウトしてみるのが一番手っ取り早そう。

全部のカードが並んだPDFがあったら便利なんだけども。

ツールはアートリテラシーディバイドを引き起こすか

Posted in Whatnot by マルコ on the April 20th, 2008

昨日のエントリを書きながら思ったこと。

昨日紹介したDirect Note Accessは、ツールだ。ツールから生み出されるものはやはり使う人次第で、いいツールを使ったからといっていいものができるとは限らないというのはよく言われることだし、僕も素朴にはそう思う。

だが、それはいつの世でも変わらないものだろうか。

なんて聞くと「そりゃそうだ!」と即答したくなるが、考えてみるとそうでもないかもしれない。

たとえばFlickrのInterestingnessなんかに出てくる色鮮やかで美しい写真のほとんどはPhotoshopなどで加工してある。 5分でできるような簡単な加工だなと分かってしまうようなものもあるが、僕などから見るとカメラがいいのか腕がいいのか知らんがとにかく美しいと思えるようなスゴ技のものも多いのだ。

問題は、もしかするとそれは割と簡単な加工なのかもしれないというところだ。

これは一種のディジタルディバイドだ。Photoshopを知らない人からすると奇跡に思える。でも多少なりとも使ったことがある人からすると朝飯前だったりする。

要するに、ツールは三流の職人を大量に二流に引き上げるが、同時に全体としての、あるいはピラミッドの底辺でのメディアリテラシー、あるいはアートリテラシーの高まりには限界があるかもしれないのだ。つまりツールが進歩するにつれ、一般の大衆は安い加工と手の込んだ加工を判別できなくなっていく可能性がある。僕が写真についてそうなっているのと同じように。

今はまだ音楽や3D映像については安いものと洗練された技術によるものの区別がつきやすい。だが画像・写真はその域を出つつあるかのように思える。

いずれ音楽についても同じ事が十分起こり得る。ツールが力を増すにつれ、素人は準素人と達人の区別がつかなくなる。

それとも、世の中と技術は併走し、いかにパワフルなツールが出ようとも人間のセンスはそれを判別した上で楽しめるように底上げされていくんだろうか。そう、たとえば料理にしても何にしても、準素人が家庭でできるレベルというのは技術の進歩に伴い上がる一方だが、やはり二流と三流の差というのは明確で、大衆はそれを区別した上で楽しんでいるのだ。

写真が特殊な例なのか、音楽も映像も造形もそちらに向かうのか。今はちょっと僕には分からない。音楽に関しては十年ぐらいで答えが出るかもしれない。

和音の中までいじれる音楽編集ソフト

Posted in Whatnot by マルコ on the April 19th, 2008

It’s like Photoshop for music.

これはすごい。ドイツで開発されているDirect Note Accessという音楽編集ソフトなのだが、なんと和音の中のそれぞれの音まで触れてしまうそうだ。

かなり衝撃的なデモ動画があるので、とにかくまずはご覧あれ。

1:10 - 従来のコード操作。コード全体のピッチが上下する。
1:55 - コードがそれぞれの構成音に分解できる。

ここからはもう見てのとおり、ミラクルが展開される。

Youtubeではよくわからないが、音をいじってもほとんど音質が劣化しないらしい。実際のところはどうなんだろうか。たとえばPhotoshopでもカラーバランスを変えたり彩度を上げたりしていると簡単にトーンジャンプを起こすが、きっと同じような劣化は避けられないはずだ。何らかの形で飛んだ情報をうまく補完したりする技術も入ってるんだろうな。

これを導入すればコマーシャリズムいっぱいのJ-Popレーベルはレコーディングコストが下がって万々歳だろう。なにせ歌が下手でも楽器が下手でも採り直しの必要がないのだ。一人のミスのために10人の時間が奪われることがなくなる。効率が上がって時間的・人的コストは下がり、同じ時間とカネでできるレコーディングの数が増える。

それは一体どういうことを意味するのか。他でもない、こういった技術の登場は、CDは良くてもライブを聞くと萎え死ぬような中途半端アーティストがまだまだ増えることを保証してくれるのだ。さらに言えば、編集ソフトがHi-Fiになればなるほど我々の耳は厳しく試される。「そんなん本当の音楽じゃないやろ」なんて言っててもあなたの聞いてるマイルスは調整済みかもしれない。世界の未来は明るい。

というのはさておき、これが活用できるのはきっとそんな残念な場面だけじゃない。リミックス、マッシュアップ関連でいろいろと面白いプロジェクトが増えそうだし、たぶん映画やテレビ番組などの音声トラックを編集するのにも使えそうな気がする。いや、業界を全く以って知らないから当て推量でしかないが、少なくとも素人メディアでは活躍すること間違いなしだろうと思うし、それはそれで今の世の中では大きな意味を持つはずだ。

リリース直後は祭りになるだろうから、どんな作品が出てくるかちょっと楽しみだ。

量子力学の奇妙なところについての読書メモ(3)

Posted in BookNotes by マルコ on the April 18th, 2008

why-quantum-physics-is-not-as-strange

1回目2回目の続きです。

本当のパラドックス

EPR実験やその周辺について思考を巡らせるとき、我々は実在について悩まなければいけない。だがロケットを飛ばしたりタンパク質の折りたたみを調べたりしているときは、そんな必要はない。ならば、微細な部分では曖昧で不可解な性質を持つものが、なぜ巨視的には堅固で確実なように見えるのか。

また、量子の性質が不確定だというのならば、それを観測する機械自体が不確定で曖昧な結果を出さないと、どうして言いきれるのか。

脱コヒーレンス

この問題を説明するため、まずは例の猫が生きているか死んでいるかを考える。生きた猫を表す粒子の配列はたくさんあり、死んだ猫を表す粒子の配列もおそらく同じくらいたくさんある。しかもそれらはその中で常にうごめいている。すると、猫が生きているとか死んでいるとかを、ひとつの巨視的量子状態として捉えていいのかは疑問だ。

結論から言うと、猫の箱につながれたシュテルン・ゲルラハ磁石を電子が通過した瞬間、たしかに猫は半分死んで、半分生きている。電子が半分上向きで半分下向きと言うのとまったく同じ意味で、つまり重ね合わせとして、だ。だが大量の粒子の集まりとしての猫は常に微妙に変化している。このとき、死んでいる側と生きている側が両方ランダムに生きた状態と死んだ状態へと変化していく。この無数の生きた猫と死んだ猫の重ね合わせにより、波動関数が互いに打ち消し合うのだ。従って巨視的には、確率的に生きているか死んでいるかどちらかへ変化することになる。

要するに電子が観測されたその一瞬だけは猫も重ね合わせの状態にあるが、一瞬後には、おなじみの「生きているか死んでいるか知らない」というごく普通な状態になるわけだ。

これを、量子の集合体が協調的にではなく分散的に動くという意味で脱コヒーレンスとよぶ。

コヒーレンスが復活したら

脱コヒーレンスは、それぞれの粒子がほぼランダムに動くため、コヒーレンスを維持するのに比べて圧倒的に確率が有利なためおこる。これは、たとえばタバコの煙を吐き出したとき、それがまっすぐ上に昇らず広がっていくのと似ている。原理的には、まっすぐ昇ることは可能だ。ただ確率が極めて低いというだけの話である。白いピン球10000個の中に3個のオレンジ色のピン球を入れ、その容器を振っているうちに三個が集まってくるか、というのとも似ている。原理的には可能だが現実的には起こり得ない。

つまり、時間が経てば猫は再び半死半生の重ね合わせになりうる。だが現実的には起こりえず、起こったとしても誰も気がつかないほど早くコヒーレンシは再び失われ、その性質は消える。

月がきっと存在するのも、観測機が正しく電子のスピンを観測できるのも、同じ理由による。天文学的に小さい確率で、月が一瞬裏返るかもしれないし、計りの針が二ヶ所を同時に指すかもしれない。だがそれは巨視的なモノに関しては現実的には起こり得ないから、心配する必要が無いのだ。

感想

一応、これで全部です。あまりうまくまとまっていないのは、あまりちゃんと理解していないため。たぶんこの本が特に難解だという訳ではないと思うが、概念自体が僕にとっては新しすぎて、馴染むのに時間のかかっている。なにせ、対応する現実のメタファが見当たらない。他の分野の科学というのはだいたいにおいて現実世界にメタファがあり、それを活用することで理解を進めることができているんだというのは、この本を読んで得た副作用的な気づきだ。

この本のタイトルはかなりいいところを突いてると思う。序盤・中盤で量子力学の奇妙なところをこれでもかというほど突きつけておいて、終盤ではその奇妙さが八割がた無くなるように展開する。ただ、完全になくなる訳ではない。だから「思ったほど奇妙でない」というのは言い得て妙だ。

英語の長い分がそのまま訳されていたりと和訳にちょっと難があるが、全体的には、かなり頭の体操になったので満足だ。

しかし結局もやもやが残る…。これを消そうと思うといずれかの流派(と言うよりむしろ宗派)を踏襲するしかないんだろうか。

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